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2005/03/31

明石原人を訪ねる (明石探訪シリーズ)

なんじゃ、明石探訪シリーズというのは。

皆さんは明石原人をご存知でしょうか?

戦前に旧石器時代の人骨が明石の海岸で発見されたというものです。
明石原人 (1:明石のあけぼの)←わかりやすい説明

東京大学←難しい説明

<「明石原人」の謎>←泣ける話。大学の学者とか朝日新聞が鬼に見えてきます。

本物が戦争で焼失したとのことで「謎の原人」なのですが、近くではゾウの化石が発掘されていたりします。このあたりは屏風のように断崖が続くということで屏風ヶ浦海岸と言うそうです。旧石器時代ということで真偽をめぐって論争があったそうです。(もう論争にもなってないようですが)

屏風ヶ浦とは風流ですが、当時の面影は残っているのでしょうか?
では行ってみましょう。

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江井ヶ島海岸から浜の散歩道というサイクリングロードを歩いていきます。
今日は暖かくて桜が開花していますね。

護岸工事が進んでいて自然のままの崖などほとんど残っていないですね。
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自然どころか、こういう無理やりな家の建て方はどうなのよ?と思いますが。


IMG_0153

2km歩くと見えてきました。あのあたりのマンションが建っている崖のようです。向こうに見えるのは明石大橋です。

ここだ!
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昔は土がむき出しだったそうですが、今はただの草ぼうぼうの工事現場になってます。金網で囲う工事をしていましたが、この土地を保存する工事なのでしょうか?それとも住宅とか公園の工事でしょうか?工事のおじさんが昼寝をしていました。


☆☆☆☆☆☆☆☆

明石原人の謎(団塊の世代一代記)Akimasa.Net を元にすると明石原人のお話は次のようになります。
要約してあるので原文とは違っています。元はURL先を読んでください。
http://www.terra.dti.ne.jp/~akimasa/html/itidaiki/akasi.htm

主人公、直良信夫。

大正5年、14歳、九州臼杵市の活版所に丁稚奉公。半年で辞め、家の手伝いで畑仕事をしながら勉学に励む。そのとき、若い女教師直良音に声をかけられ励まされる。(後に結婚することになる)
こののち上京し、学校に入っては体調を崩して辞めたり、別の学校に入って勉強。
大正9年、18歳。農商務省臨時窒素研究所就職。
仕事をしながら、研究所近くの貝塚で発掘、研究。無理がたたり結核に。
大正12年、処女論文発表。このとき21歳。
大正12年、夏、病のため帰省。途中、直良音先生が姫路にいることを思い出し、姫路で下車。そこで看護を受ける。その日正午前、関東大震災。死者行方不明14万人余。結婚を約束していた女性を東京に残していたがその後も消息をつかむことができなかった。

大正14年。結局結核療養で明石に居を構える。自宅の玄関に「直良石器時代文化研究所」という看板を掲げる。
明石の西海岸に洪積世の地層が露出していることを発見。
昭和2年、旧象の臼歯の破片とメノウの石器と思われるものを発見。→旧象については別の地点からも化石が発掘されており、アカシゾウと命名されています。明石市の文化博物館に展示されています。

昭和6年4月18日、昨夜の暴風で崩れたと思われる崩壊土に八分埋まった人骨発見。化石化していた
専門家の鑑定を得るために東京、京都の学者に手紙
4月23日、東京帝国大学の松村博士「人骨を拝借したい」
5月3日、大阪朝日新聞「三、四十万年前の人体の骨盤現る」
5月2日付(5日着)、松村手紙「人骨であり、化石化の程度や色から太古のもの」
5月10日、京都帝国大学の学者、学生、直良家訪問。人骨は当然手元にないので現物見せられず。
6月6日、松村博士、西八木海岸の現場に立つ。その後、人骨送り返される。手紙には「化石人骨かどうか断定できない
京都帝国大学の関係者「詐欺師」呼ばわり。

人骨を発見して専門家に送ると東大の学者に「太古の人骨」と言われ、いきなり朝日新聞に数十年前の人骨と記事が載ったかと思えば、手のひら返して「断定できない」。わずか2ヶ月の話。おまけに京大からは詐欺師扱い。
学歴のないアマチュア研究者は学閥、学者の功名心争いに翻弄されるだけであった。

昭和7年、30歳。二人の子供+夫婦で上京。
徳永博士(早稲田大学)の研究助手になる。無給。獣骨化石の整理、満蒙学術調査団に参加、化石層の発見。
早稲田大学付属高等工学校の夜学会計事務、図書係を経る。
昭和20年4月、43歳。早稲田大学講師(正式辞令)に。
その2ヶ月後、昭和20年5月25日、東京大空襲。家も大学も全焼。標本、資料、原稿、焼失。人骨も見つからず

昭和22年1月、東大の長谷部名誉教授、「明石人骨」の写真と石膏模型が見つかったのでこれを元に研究し論文を発表したいので了解をいただきたいと使いを遣す。松村博士が無断で模型を作って保存していたらしく、長谷部がそれを”発見”した。手元に何も残ってない信夫は了解するしかなかった。
昭和23年7月 人類学雑誌に長谷部発表。ニッポナントロプス・アカシエンシス(明石原人)と名づけ、学名の後につける発見者の姓を「ハセベ」としていた。信夫は人骨を旧人(20万年前ころ)と見ていたが、長谷部博士は原人級(50万年以上前)と推定。
昭和23年10月、信夫46歳。明石市西八木海岸の発掘調査。長谷部博士を長とした東大人類学教室を中心としたものだが、発見者の信夫には事前に何の連絡もなく、後にオブザーバーとして参加を許される。
昭和32年、早稲田大学文学博士号(信夫55歳)
昭和35年、理工学部採鉱冶金学科教授
昭和40年、妻の音死去。享年73歳、結婚生活42年。病気がちな夫がアマチュア時代は生活は音が支えていた。上京のときもそれまで勤めていた学校を辞め、東京の学校に転職して夫に協力した。戦後は体調をくずし、夫の信夫が死に物狂いで働いて妻の世話をみながら、添えとげたのです。
昭和47年、70歳。定年退職

昭和57年、朝日新聞夕刊 ”明石「原人」はいなかった”の記事。
「科学朝日」に、遠藤(東大)、馬場(独協医科大学)により「明石原人」はせいぜい一万年前の人類との結論を発表。現物は焼失してるので模型を元に研究した結果であった。

昭和60年(1985)3月、西八木海岸発掘調査。信夫は高齢のため発掘にまたもや参加することはできなかった。孫娘が3日間ほど発掘に加わる。→このとき、人骨は発見されなかったものの、旧石器時代の石器が発見されています。
8ヶ月後の昭和60年(1985)11月1日、明石市文化功労賞(生涯唯一の褒章)
翌日、11月2日、信夫逝く、享年83歳。

末期の病床で、信夫は熱にうなされながらしきりに繰り返したという。「私は百万年前の落ち武者で、道に迷って困っております。私の行先を教えて下さい」


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