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2004年3月

2004/03/31

謎の四國

徳島の博物館などへ行けばわかるが発掘された大型の銅鐸などがわんさかと。かなりの豪族がいたことがしのばれる。

以下、と学会会員の原田 実氏の文章より引用。

http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/black.htm愛媛県宇和島出身の明治の哲学者は「宇和島人はアリアン人たり、ヤペテ人たり、キンメリ人たり、希臘、ホエニシア、埃及人たり、神話時代の神裔人種たるを証明

70年代の『邪馬壱国は阿波だった』も大受け。
聖徳太子(厩戸皇子)は引田町の厩戸川の川口で生まれた生粋の阿波っ子であり(その一)、一般には滋賀県にあったとされる天智天皇の大津京も伊太乃郡山下郷の大津に置かれていたということになる(その二)。

山東省のラマ寺から発見された謎の契丹秘史三千字(中略)著者は二十年の研究によって遂に解読し、日本民族のルーツと邪馬台国のルーツについて重要な手がかりを得、倭人の実体を解明するとともに邪馬台国は四国松山に比定できるという驚くべき結論に到達した。、、、、、うわわぁぁぁあああ

「現在の世界を陰で支配しているといわれるユダヤ人は、実は本物のユダヤ人ではない。その決定的な証拠が、日本の、しかも四国の剣山に隠されているというのである」、そして、その証拠とは「契約の箱」であり、大秘密政策は「契約の箱」を隠し通すためのものだったというのである!
『旧約聖書』によると、「契約の箱」こと、アークはもともと出エジプトの際、モーゼがシナイ山で神から授かった十戒の石板を納めた箱である、、、、ひひぃぃぃ

アレキサンダー大王は日本に来た』によると、西洋史で早逝したとされるアレキサンダー大王(前三二六年没)は、実は自らの死を偽装して日本に渡来して、崇神天皇となった。その後、アレキサンダーは田島守をエルサレムに派遣して「契約の櫃」をこっそり日本へと運ばせ、四国剣山に隠したのだという。
、、、おおおおぉぉぉぉ

剣山の麓、徳島県祖谷地方に伝わる次の民謡も、「契約の櫃」の所在を示すもの
、、、東北にイエスキリストの墓があるところにも民謡があったなあ。

五〇年前後の頃、清水寛山という人物がやはりアークを捜して剣山に登ったが、岩穴で一夜を過ごす途中、岩の下敷きになって死んだという地元の人の証言もある、、、昭和三十三年の記録

五二年八月七日に剣山入り、十七日から発掘を開始した。その発掘により、山本らは五十体以上のミイラを発見したと主張するが、それは風化のため、土と見分けがつかなくなっていたということで真偽不明である。途中から、竜宮教教主・伊藤妙照なる人物も剣山に入り、古代の土器や人体の化石を掘り出したと発表したが、その現物は公開されなかったらしい。、、、、ないのかよ!

約四千年前も、室戸岬から約一万人のユダヤ人が北上して付近にすみついていた
平家落人部落で知られるこの祖谷山の住民は、世界各国でみたユダヤ民族の顔と共通点である。
剣山は縄文時代以前の原日本人が遺したピラミッド

ところが一九九〇年代に入ってから、この状況に変化が生じる。きっかけは国際文化新聞編集長(当時)の三浦大介氏が、高根三教『アレキサンダー大王は日本に来た』を編集した縁で剣山を訪ねたことである。三浦氏はそこで大杉博氏と知りあい、国際文化新聞紙面に、邪馬台国四国山上説の発表の場を設けることになった(大杉『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』の推薦文は三浦氏が書いている)。、、、、誰じゃ、この三浦という新聞編集長は!

一九九四年九月八日から十一日にかけて、徳島県美馬郡貞光町の商工会青年部は宇野氏や大杉氏の主張を地域振興に利用するべく、日本探検協会会長・高橋良典氏を招き、剣山周辺の遺跡調査を行っている。徳島新聞も報道、、、、、、地域振興?!

剣山には太古の地下都市シャンバラの宮殿とヴィマナが今も眠っている、、、、空とぶ船(ラピュタ、ナウシカ?)


「長きにわたって四国は“死国”とされてきた。四国について書かれた小説はほとんどないし、四国についての歴史教育はほとんど行われない。日本中に高速道路が張り廻らされたとはいえ、最後にそれが完成したのは四国の中でも阿波の国、徳島県だった」
宇野氏の文章には読者の妬み、嫉み、僻みといった負の感情に訴えかけるものがある。宇野氏お得意の反ユダヤ論が、世界の主流から疎外された国・日本の負の感情に同調するものだとすれば、この四国論は、日本の中央から疎外された地方・四国の負の感情に働きかけるものといえよう。、、、、住んでた者としてわからないでもない。

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2004/03/04

回想4

大学時代は徳島に住んだ。徳島とは四国にある。昔、ギネスに載った長寿世界一の泉重千代さんという人が住んでいたところ、、、と思って受験したら、あれは徳之島という別の島だった。というぐらいに徳島は知らない土地だった。大阪に住んでてこれぐらいだ。今だに讃岐うどんは徳島だと思っている人もいるし、香川県と高松県というのがあるという人もいる。たぶん高知県と間違えているのだ。それぐらい世間に認知されてない島だった。
そう、島だったのだ!ほんの20年近く前までは。
何しろ本州とつなぐ橋が無かった。船か飛行機しかなかったのだ。定期船、飛行機はあったが観光客は何も気付かず行き来していた。しかしインフラの整備が遅れ、交通の便が悪いため訪れることのできる観光地は限られていた。観光客には何も気付かれないようにされていた。しかし徳島に住もうという人間への扱いは別だったのだ。しかしそんなことは知らない我々受験生はフェリーで徳島へ着いたのだ。するとそこには聞いたことのない言葉をしゃべり別の思想を持った人々が待ち構えていた。街の中心部に山がそびえていたが放送用の電波塔が乱立しており県営放送の電波および他地域からの放送の妨害電波が流されていた。街で購入したテレビはチューナーが固定され県営放送しか視聴できないようになっていた。しかし庶民は庶民で屋根に長いポールでアンテナを立て大阪からのTVを視聴していたようである。しかし、そういう家は一夜にして一家行方不明になることが多かったようであるが。
ここまで書けばわかると思うが徳島は四国という離島であったため戦後日本とは別体制で統治されていたのである。しかし四国以外の地域の日本人は巧妙に情報を隠されていたためまるで真実を知らなかったのである。「本土」から来る観光客には演技をすることが義務付けられていた。観光といえば阿波踊りであるが、重要な徳島の観光収入源であり外資を稼ぐために春から民衆は毎日借り出され練習を強制される。練習のグループは連と呼ばれ、それぞれの思想、階級、所属などで分けられており、県への不満分子を見つけ密告するシステムとして機能していた。しかしながらこのようなことを続けていてはいかに監視が厳しかろうが不満は出てくる。従って県民は県特産のスダチという麻薬作用のある柑橘類を食べさせられていた。魚のみならず味噌汁、ミネラルウォーターにもスダチを絞り毎日摂取しておりスダチなしでは生きていけない廃人にすることによって支配されていたのだ。
四国にはその名の通り4県ある。徳島は他3県とは険しい山で遮られており、孤島の中の孤島であった。主要な道にはゲートがあり封鎖されていた。無論、幕末に土佐の坂本龍馬が脱藩したような抜け道はあったので若干の人の交流はいまだにあった。しかし、それぞれ方言が違うのですぐ見破られる。高知の人間は水は飲まない代わりに酒を飲むのでばれる。香川の人間は米を食うふりをして自分で打ったうどんを食うのでばれる。愛媛の人間はポンジュースをついつい買い求めてしまいばれる。そうやってどれだけの人間が鳴門の渦に沈んでいったことか。なぜこんな四国内で内戦状態になっているのかというと経済の問題であった。経済状態が悪いと戦乱の世となってしまうのだ。本土は四国へのエネルギー、食料援助を制限していたため、小さな島国では全体主義体制の独裁者でクニを統治するしかなかったのである。エネルギー問題解決のため愛媛は原子力発電をソビエトからの技術供与で開発をしていたが、メルトダウンを起こしたという情報を最後にほとんど何も伝わらなくなってしまった。
大学では比較的自由な行動が許されておりサークル活動などもできた。マンガを描くサークルにも入っていたが、へたな作品を描こうものならしょっぴかれるためひやひやものであった。従って地下活動で描くしかなかったのである。当時はパソコンもプリンターもスキャナーもコピー機も販売禁止だったため、皆「ガリ板刷り」で同人誌を発行していた。必死の思いで闇輸入した杉浦茂本の可愛い女の子などをまねてロリコン絵などと呼ばれていたものである。
あんな暗い明日をも知れぬ社会にいた頃はこうして「本土」に帰れる日があろうとは思いもしなかった。
今や、「本土」いや本州とは3つも連絡橋が出来、自由に行き来できるのである。
これも市民の一斉蜂起による革命により手に入れた自由のおかげなのだ。
また、そのことについては後日語ろうと思う。

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